少人数制よりも学習効果がある!? 学び合いによる授業

 言語活動の充実による授業で学力が向上する。授業で必要なのは、全員が全員のために全力を尽くしたかをみるだけ。ひとりも理解していない子どもがいないようにする。それも、教師ではなく子ども同士で学び合う。これで学力はあがり、大勢の教師も必要ない、という授業について西川純上越教育大学教授に話を伺った。



 子ども同士が互いに教えあい、学びあう授業はイベントではなく、毎日行われているという。また、この授業であれば。体育館のようなな場所で小学1年から6年生の授業を一緒にして行うこともできるという。ぐちゃぐちゃで勉強が分かるか、と言われることもがあるが、これらだからこそ成績があがると西川教授は話す。

 この授業方式は、みんなが分かり説明できるようにグループで作り30分の制限時間で行う。グループはその場で作るのだそうだ。グループで子ども同士が学び合うから教師は少なくてもいいという。なるべく静かにして教師の話をじっと聞き入るといった既成概念の“正しい”授業とは正反対ともいえるもの。学力向上のためになるべく目が行き届くようになる少人数制授業とは異なる考え方と言えるかもしれない。

 西川教授は、子どもが授業を嫌いになるのは、丸暗記でテストをクリアする、スルーすることになるからだ。教師は、過度に難しいことを言っているだけ。子どもに聞かず理念で語っているだけだからだという。
 西川教授によれば、社会科でいえば用語でつまづいているのは子どもの7割で、初めて出会う言葉には特に抵抗感があるという。「国会は衆議院と参議院に分かれています」と教科書に書かれていても、そもそも衆議院、参議院自体が分からない。ドイツ語やギリシア語で授業をやられたら分からないのと同じこと。
 算数でも「一本200円鉛筆5本と一個50円の消しゴムを買った代金はいくらか?」と聞かれても、「代金」の言葉が分からないことがある。一般的な授業であれば、教師は単純な足し算で代金が分からないとは思わず、先に進んでしまう。そして、それが積み重なっていく。最も基本の言語が分かっていない、だからできない。分かっていないから話さない、黙って下を向いているだけとなる。つまり、教科書に書かれていることが分からない、先生が言っていることが分からないから学力にならない、上がらないとなるのだそうだ。

 学び合いでは、子どもたちがどのように解決するかといえば、分からないことは友だちに聞く。それでも分からなければ、別の友だちに尋ねる。また、国語辞書を使う、資料集を利用することにもなる。
 例えば社会科で、デイサービスという言葉が教科書に出てくるが、唐突に言われても子どもには分からない。一般的な授業であれば、「デイサービスではこのようなことが行われており~」と授業が進むが、子ども同士での学び合いになると、まず、「デイサービスとは何だ?」から始まる。そうすると、「近所にある『ひまわり』のことだよ」と他の子どもが答えるという。身近にあるあの施設のことだなれば子どもにイメージがつかめ、分かっていくのだという。
 友だちだから、少しでも分からないことをすぐに気兼ねなく聞くことができるのがポイントのひとつのようだ。ひとりも理解していない子どもがいないようにするとの前提があるので、子ども全員に目が届くことにもなる。そして、このことで、何よりも、子どもにやる気を起こさせる授業になる。寝るようなことはできなくなる。これは教師はできないことだとも話されていた。教師が黙れ! 座れ! 書け!と言うことやできない子どもを見捨てるのは簡単。でも、このような授業になっていない。できたらやっているはずだとの指摘は考えさせられる。
 また、子どものことをよく考えてみれば、教師と会話しなくても困らないが、子ども同士の会話がないのは嫌だ。子ども同士なら会話ができることを考えるべきだ。今の多くの授業は、教師から一方通行で多様性を認めない。だから少人数にという。しかし、少人数教育はお金かかる。公共施設にも福祉にもお金がかかるのだからできるわけがないとも話されていた。教育をコストだけで考えたくはないが、現実問題も考えればならない。学び合いの授業は重要ななるとも思った。
 話しを聞いていて疑問に思ったのは、できない子どもには効果的だができる子どもにはどうなのか、ということだ。西川教授によれば、できの悪い子に良い子が引きづられないかと良く聞かれるが、相乗効果というものがある。実際に見ているとアホな子ができる子に教えることもある。学力は、教科書に書いてあることが分かれば充分だとも話されていた。

 言語というと本を読んだり感想文を書いたりすることと思いがちだが、そもそもの言語が違ったのだと思った。指摘されて思い出したら、教師が何を言っているか分からないから、授業を聞いていてもチンプンカンプン。教科書に落書きしてしまうようなことがあったな、と自らの経験を思い返してしまった。言葉自体が分かっていないという指摘は目から鱗状態といえるのではないだろうか。教えることは、理解していないとできないことでもある。聞いているだけの座学よりも確かに身につくように思えた。

■コミュニティ再生にも

 そして、コミュニティの再生にも大きな意味を持つとの話しもあった。
 地域をを変えるのは何か。近くに仲間がいれば楽しいことができるとの発想になるべき。そのためのコミュニティを作らなくてはならないが、まず、そのための資源を作らなくてはならないはずだ。コミュニティの中心になるのは学校であり、学び合い授業から仲間が生まれ、地域がつながっていく。仲間がいるからそこに住みたいとなる。保護者も含めてこのネットワークが地域を良くしていくはずだ。地域を良くするのはお金でもなくスーパーマンでもない。学校を核とした関係だろう、との話しには同感するものがあった。
 しかし、同じ学年、学級だけのつながりとなると小学生の序列が老人会まで引きずることになる。それでは仲間ではない。現実に、単一クラスの序列が複数の小学校から集まる中学校でつぶれることもある。そのため、固定化した関係を打破するのが異学年の交流だ。3年生でボスになっても、6年生がいると3年生同士は対等になる。それに、教師から言われるよりも上級生に言われたほうが伝わる。上級生も下級生がいればやさしくなる、教えたくなる効果もある。
 集団での授業は教師にもゆとりができることにもなる。現実的にゆとりが必要なのは教師であることも考えて欲しいとの指摘もあった。

 コミュニティを飲み会に例えれば簡単なこと。銀座でなくても地域に仲間がいればそれで楽しいでしょう? との投げかけには、思わず納得してしまった。お仕着せの仲間や制度ではなく、楽しいからというのが、最もやる気になることだと思う。なぜ飲み屋に行くのか。銀座だから楽しいのではなく、そこに仲間がいるか、話す相手がいるから、と考えればいいのだ。コミュニティも同じ。コミュニティを作りましょう、大切にしましょうと教科書的に言われてできるわけがない。それも行政が言い出すのでは余計にだ。

 授業で子ども同士が学びあうことで、大人になっても同じ仲間関係を作ることになる。それが地域へとつながるのかもしれない。学力だけでなく、もっと大きなことを学び合えるのでは、と思えた。

(西川教授の話は、民主党東京都区市町村議員団研修会で伺ったもの)

【参考】
西川純の部屋