市民会議、市民参加のミッション

 8月25日の「武蔵野市の将来を考える市民会議」と9月3日の「小学生の放課後施策推進協議会(第2回)」を傍聴した。どちらも市民参加による会議だ。中身の議論は意義があると思うのだが、他に市民会議との整合性は、どうなんだ、と正直、思ってしまった。
 市民参加は必要不可欠だが、何を議論するのかのミッションを明確しておかないと、同じことを別の会議で議論してしまい話が元に戻ってしまわないか、と感じたからだ。


 この日の「武蔵野市の将来を考える市民会議」のテーマはコミュニティ。議論は興味深いもので有意義だとは思ったが、このテーマは昨年、議論していたことではなかったかと思った。それは、約1年半の期間をかけて議論してきた第6期コミュニティ市民委員会のことで、報告書が今年の1月に出されており、同じような議論になってたと思えたからだ。
議論は必要だが、なぜ、この場で同じことを、さらに言えば二時間という時間を決められている中で議論をしなくてはならないか。また、この日の議論と報告書との結論が異なったらどうするのだろう、と思った。

 3日の「小学生の放課後施策推進協議会」は、第二回目ということや初めて参加する委員もいたことから、それぞれの思いを伝え合う課程だとは理解はしているのだが、他国との比較や総論的な話題が多いように思え、これらは昨年の子どもプランの策定過程で議論していたことではなかったとも思った。

 どちらとも、市民委員の皆さんに、これまでにこのような結論があり、この課題が残されているで議論して欲しいなど、何のために、いつまでに、何を議論しなくてはならないのかという具体的なミッションを明確することや施策体系のなかで、どこに位置づけられている市民会議なのかも分かりやすくしたほうがいいのではないだろうか。

 それぞれの委員は真摯に議論されているので申し訳ないと思うのだが、参加している委員も具体的に何を求められているのか分かったほうが議論もしやすいはずだ。市民参加は必要不可欠。でも、参加することが目的ではないはずだ。

 今後の議論に期待をしているが、傍聴席からは、委員会が何を目指しているのか、今ひとつ分からず結論はどうするのだろうと思ったのであえて書いてみた。心配は杞憂で終わって欲しい。